『機動戦士ガンダム 水星の魔女』考察 スレッタとメインテーマ
『水星の魔女』が面白くなってきたので、ここでどんな話になるか予想してみたい。
主人公スレッタ・マーキュリーの背景と、人物像を考えながら予想するとわかりやすいと思う。
だがまず、エランだ。
エランの消息は不明だが、殺害するのならばあんなに大掛かりな装置でやる必要はないわけで、あれは殺害された描写ではなく、殺害とは別のことをされたされた描写である。
従って何らかの形で彼の意思は存在している。
オープニングの演出を見る限り、現エランと一体化するだろう。
グエルは運がなかっただけで、正真正銘の実力者だ。本当の王子様はグエルだろう。
スレッタは劇中で一番の親ばかに、手を抜いて、その分おおらかに育てられた次女である。
だからこそ、その分おおらかで魅力的に育って、多くの人に愛されている。
そして、そのおおらかさで世界を救うだろう。
ミオリネは、スレッタにとっての要救助者なのである。
以上の推察より、
『水星の魔女』は鬱アニメではない。
鬱アニメのフリをした人間讃歌であり、そのメインテーマは、
ガンダム イズ ライフ イズ ビューティフル
これが『水星の魔女』のメインテーマだと思われる。
人間が穀物に家畜化されたというのはどういうことか
人間が農作物に家畜化されたという動画をYouTubeでみました。
ああたしかにそうだなと思っののですが、それがどういうことかと考えると、
農作物や共同体に過剰な幻想に囚われ、恐怖を覚えやすい人間が生き残ったということだと思いました。
なので、これらのことは解釈によってどうとでも言えることで実際には、
お化けを怖がりやすいかわいい人が生き残っただけだけだと思います。
ならばどうするか。
少しだけ勇気を持って、いないお化けがいないのを確認し、
いるお化けは、お化けではないので、現実的な対処をしていけばいいのです。
これでいいのです。
(よく考えたら、これはID論の一種だ。2023/4/20 補足)
男女の性の苦しみの構図から開放される方法
まず、筆者は男である。この立場からフェミニスト、ひいてはすべての男女が持つべきだと思った洞察があるので、少し時間を頂いて読んでいただきたい。
ずっと疑問だったことがあった。
女性がポルノグラフィを女性全体に対する差別だと言っている理由がどうしても理解できなかった。
この理由を考えていてもわからなかった。
だが、自分の考え方がだんだんと言葉にできるようになってから、やっと理由があることに気づいた。
その前に筆者の体験を聞いてほしい。
小学生の頃私はある不安を抱えていた。
それは、
「10年後の自分が本当に今の自分の生きた延長にあるだろうか?」
という、自分の連続性に対する漠然とした疑問であった。
自分の連続性に自信がなかったのである。
だが、40歳を超えた今、こういった自分の連続性に対して疑問を抱くことは一切なくなった。
なぜなら、中学二年生からギターを引き始め、現在までギターを続けてきて、ギターを持てば体がギターの弾き方を覚えていることが、ギターを始めてから現在までの自分が完全な連続体であると、体で覚えているからである。
体で覚えたことは忘れない。
自転車の乗り方を忘れない事の延長にあるような状態が、自分の連続性を直感的に、そして強力に保証してくれるのだ。
従って、考えてもわかりようのないことは、体で覚えた事や直感的な感覚で向かい合ったほうが上手くいくという教訓をギターから学んだのである。
特に楽器をやったことがなくても、自転車に乗れる人間ならば、今から10年間一切自転車に触らず、10年後に自転車に乗れるか聞かれたら、身体能力に問題がなければ乗っていなかったなりに乗れると、いくらか自信を持って答えられるはずだ。
芸術を教養としてやらせる目的はこういったことでもあるはずだ。
ただし、知識や思考からこういったこういった直感的理解を得られないかというとそうでもない。
数学や物理学など、直感的に理解するまでやり込んで、
『こういうふうに考えればいいんだ!』
と、ピキーンと直感的に理解できるというところまで行けば、知識や思考を直感的に扱いつづけ、そこから自分の連続性を感じることも出来るだろう。
だが、これは万人向けではない。
単純に難しいからである。
誰でも出来るわけではなく、たとえ努力したとしてもそういった閃きに至るかどうかは、運によるところが大きく、決して万人向けとはいえない。
そして、その閃きを得るところまでくらいはいけたからこそ言える。
人間の連続性を感じさせる最大の要素は体で覚えたことだ。と
体で覚えたことは、それほど強力なのである。
話を男女の問題に戻そう。
体で覚えたことは強い。
この観点から考えると、男は異常なまでに強いことがわかる。
なぜなら、第二次性徴期になれば男は単純に性に目覚めて、女性に発情してオナニーをするようになるし、ポルノグラフィが好きにもなる。
体で覚えたことの強さを考えると、ポルノグラフィを見てオナニーをすることが、人間の心をすごく強くすることになる。
そして、これは正しいと思う。
では女性はどうであるか、
再び私の体験に戻る。
保育所時代、年長組の昼寝の時間のことだ。
昼寝の時間、なかなか寝付けないでいたら隣で寝ていた女の子からオマンコを触ってほしいと頼まれた。
特に嫌とも感じなかったので手マンをした。
その子は気持ちいいと言っていた。
そのまま続けていたら、保育士の先生がやってきて止められて、大人しく従ってやめた。
だがそれ以上何かを言われもしなかったので、そんなことは普通なのだろう。
男は単純にスケベだ言われるが、なんのことはない。
初潮前どころか小学校に上る前から男にてマンして欲しい子は欲しいのだ。
女性は女性なりに単純にエロいのである。
だが、そのまま第二次性徴期を迎えれば、男が性により深く目覚め、発情する回数と射精する回数が増える。
女がエロいことを1求めたら、10求められられ体がついていけなくなる。
男が満足するまでセックスしていれば、女は望まないセックスを求められ続け体が持たなくなる。
悪く言うと、性的搾取をうける。
そうならないために、女は女なりに単純にエロいという事実を隠す。
これが多くの文明が、女性の性を隠したがる最大の理由なのではないだろうか。
たしかにこれは無難な方法、悪く言うと短絡的なのだが一応の理にかなっているので続いているのだろう。
その状況の中での男とポルノグラフィとオナニーの関係だ。
男だってエロいことは恥ずかしい。
だが女からしてみれば、自分はエロいことを正々堂々言えないのに、男は正々堂々とポルノグラフィを愛し、オナニーをしているようにしか見えないだろう。
女は女なりに単純にエロいと、事実を大っぴらに言えないのに、男は正々堂々とポルノグラフィを愛してオナニーをしていてずるい。
従ってポルノグラフィーは女性全体に対する差別でありセクハラである。
これならば論理が成立する。
だが、自然現象に基づいていると言っていいほど自然発生した性道徳、
女は女なりにエロいという事実を恥ずかしくて言えない、いえばはしたないと批判される社会のシステムが、この論理の理由を言えなくしている。
だから、理由を述べずにただ差別だと言わざるを得ない状況に女性全体を追い詰めている。
先程、体で覚えたことが強いと言った事と合わせると、この組織的構図が女性の性を大きく抑圧し、女性を大きく苦しめているのではないだろうか。
この仮定に立てば、問題である。
だが、ここまで分かってしまえば、男と女が一歩ずつ前に進めば改善できる苦しみの構造ではないだろうか。
男は自分たちがポルノグラフィーとオナニーに関してとてもおおらかだと自覚し、本能だからしょうがないと開き直らなず、ポルノグラフィーを愛でている事実を謙虚に隠し、
さらに一歩進んで女は女なりにエロいという事実を何も言わずに受け入れればいい。
そして女は、男は発情と射精の回数が多いことを、自然現象だから仕方がないと、ある程度おおらかに事実を受け入れて、男のオナニーを黙認できるおおらかさを持てばいい。
ほぼほぼ自然現象でできた社会の構造を変えるのは難しい。
だが、その程度の理由でできた苦しみを生む構造でもある。
それを理解して、多くの人間が少しずつ事実認識と解釈を少しずつ変えていけば、苦しみから開放される可能性はある。
過剰な幻想にとらわれて物事を悪い方向に考えれば、苦しむ必要もないのに苦しむことになる。
そんな苦しみは捨てたところで何も困りはしない。
あらゆることは自然現象の一部なのである。
それをわかって開放されればいい。
この洞察で、人の心が苦しみから開放されることを願う。
SNSや動画サイトで荒らしを放置できない理由は、匿名性がないシステムの問題
SNSや動画投稿サイトで、過激なことを言っているのに、それを無視して放置できない理由に気づいた。
インターネットの正解では、2ちゃんねるの黎明期から、
荒らしは放置、荒らしは放置を一番嫌がります、嵐に反応する人間もまた荒らしです。
という教訓を、コピペでいくらでも持っていた。
だが、現在のSNSや動画投稿サイトでこの教訓が引き継がれているようには見えない。
どうしてこういう状態になったのか、考えてみたがこれは必然だった。
コテハン、半匿名のシステムなので、「荒らしは放置」という指摘は、
いくらでも個人攻撃に使えるので、教訓なのか個人攻撃なのか区別がつかないので、いくらでもコピペで貼ることができないのである。
そして、暴走している人間は自分がやっていることが、荒らしになっているかもしれないと考える機会すらなく、暴走した人間に反発してしている人間もまた、嵐に反応しているかどうか考えすらしない構造になった。
この傾向は特にSNSで強くなっていて、いくらでも「炎上」が起こっていると思われる。
SNSが炎上するのは、半匿名のシステムであるが故の必然である可能性が高い。
だが、これはSNSの運営が「荒らしは放置」、という教訓を持っていないから起きている可能性が高い。わざとやっているならただ悪質なだけだが、自覚がないのでは止めようがない。
どうすれば状況が改善されるか?
SNSや動画投稿サイトのトップ画面に
*荒らしは放置、放置できない人間も荒らしです。
と、自分に対して批判的になれる注意書きを書いておけばいい。
*注意喚起 ムカつくタイトルやサムネイルを使った切り抜きは荒らし
YouTubeを見ていて気になったことがあって記事にします。
Youtubeなどの、動画配信サイトで、ある有名な人の動画の抜粋を自分のチャンネルで配信する行為を「切り抜き動画」を投稿するといいます。
それ自体は認められているのでここで指摘することはないのですが、
問題は動画のタイトルやサムネイルに、わざと曲解したような要約を付ける人も多いということです。
曲解することと認識がおかしいのを区別するのは無理だと思いますが、ここではわざと曲解している場合を取り上げます。
具体例をあげると、西村博之の動画を引用して、サムネイルに
「人生って自分のためにあるんですよ」という文章を載せてアップされた動画を見かけて気がついたことなのですが、
西村はもと2ちゃんねるの管理人で、ペーパーカンパニーの社長で、投資家です。
言ってしまえば自由業で成功して裕福になった人で、その人が
「人生って自分のためにあるんですよ」
という、確かにその通りではあるのですが、そうだと断言するのはよほど余裕がなければ無理な、強者の論理を振りかざしていて、鼻につくのが当たり前だと思ったのですが、更に気分を害したくないので、その動画の内容を見て確認しなかった。
それでも何か気になり続けていて、不思議に思っていたのですが、その理由に気づきました。
ああ、「荒らし」を「荒らし」だと分かっていなくて、真に受けてしまっていたのだなと。
インターネットの世界で荒らしというのは、わざと気に障るようなことを掲示板などに書き込むことが有名ですが、
それを動画配信サイトでやると、タイトルに書いた通り、わざと曲解して気に障るように要約して、動画のタイトルやサムネイルに載せておいて反感を買って再生数を稼いだり、反論のコメントをさせたり、サムダウンボタンを押させたりするのが、
まさしく「荒らし」だなとほんのさっき気付きました。
本来ならば、荒らしは放置するのが最適なのですが、それを荒らしだと分からなければ、放置するのも難しいと思います。
荒らしは放置すればいいと分かっていても、荒らしを荒らしだと分からなければそうすることも難しいと思ったので、少しでも多くの人に注意を喚起したいと思って記事にしました。
わざと曲解するようなタイトルやサムネイルを見たら、それは荒らしだと思って完全に無視するのが適切な対応だと思います。
『ガンダム Gのレコンギスタ』考察 その7 『エヴァンゲリオン』との映像の類似点 *ネタバレ注意
*ネタバレ注意
『Ḡのレコンギスタ』を『エヴァンゲリオン』のパロディだと書いてきたが、今回は単純に画像を比較してみよう。
一つずつ書いていくと
エントリープラグの挿入、
モンテーロのジャベリン、
零号機が持つロンギヌスの槍、
グリモアと、
第3使徒
第8使徒
六枚羽のパーフェクトパック
十二枚羽のフルドレス
G-ルシファーと揃うと熾天使、ルシファーなのだが、
それよりはこちら、
を見てもらうのが手っ取り早く解ってもらえると思う。
(2018/12/29追記
Gールシファーの角
初号機の角
(2018/12/30追記
エヴァンゲリオン3号機
マズラスターが二本のビームウィップで攻撃しているシーンは
こちら、
に似ている。
そして、角錐で強力なビームとバリアを持つユグドラシルは、こちら、
に似ている。
樹木のように広がるテンダービーム、
も、セフィロトの樹
に似ているといえば似ている。
一つ一つを見れば、決して極端に似ているものではない。
だが、意識しないでこれだけ似た映像が揃っているとも思えない。
意識して映像を真似しているが、解りにくいパロディがこれだけ揃っている。
続く
fast-run-winding.hatenablog.com
『ガンダム Gのレコンギスタ』考察 その6 一般論的な宿題 *ネタバレ注意
*ネタバレ注意
これまでの考察は、衝撃を受けながら書いたので、直感むき出しで書いてしまっていたので、一度整理しながら書き直したい。
『Gのレコンギスタ』ではその世界の中に沢山の問題があることを、とても思わせぶりに書いている。
これらの問題を、具体的になんのことか考えても面白いし、それなりの具体例を思いつくとは思う。
だが、問題になっていることがあまりに多く、その一つ一つを考えていっても作品のテーマと近づくのは難しいだろうな、と思うので、一つ一つの考察は他に人に任せたい。
筆者が思うにこれらの問題は、現実に存在しているものをモチーフにしてはいる。だが、そうしつつも特定のなにかとモチーフを特定することもできなければ、劇中の設定を厳密に決めているのではないのではないかと思う。
そうなると、問題に対する答えも用意されていなくて、物語の中にある問題は、
普遍的な問題を詰め合わせた、長い時間をかけて自分で考えなければいけないことの「宿題」のようなもので、一般論的な問題を命題にした問題提起なのではないかと思う。
こう考えると、様々な問題を抱えた『Ḡのレコンギスタ』の世界は、心に留めておくと、現実の世界に対して視野の広さを提供する、興味深い参考になると思う。
問題に答えがあるとは限らない、ただ、それと向かい合う自分が、その目で確かめたものはたしかに本物で、自分の人生の一部となっていく。
こんな感じで考えてもいいと思うが、それが具体的にどういうことか。
そこまで用意している作品でもあると思う。
次回はそこを考察したい。
続く
『ガンダム Gのレコンギスタ』考察 その7 『エヴァンゲリオン』との映像の類似点 *ネタバレ注意 - FRWブログ
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