男女の性の苦しみの構図から開放される方法
まず、筆者は男である。この立場からフェミニスト、ひいてはすべての男女が持つべきだと思った洞察があるので、少し時間を頂いて読んでいただきたい。
ずっと疑問だったことがあった。
女性がポルノグラフィを女性全体に対する差別だと言っている理由がどうしても理解できなかった。
この理由を考えていてもわからなかった。
だが、自分の考え方がだんだんと言葉にできるようになってから、やっと理由があることに気づいた。
その前に筆者の体験を聞いてほしい。
小学生の頃私はある不安を抱えていた。
それは、
「10年後の自分が本当に今の自分の生きた延長にあるだろうか?」
という、自分の連続性に対する漠然とした疑問であった。
自分の連続性に自信がなかったのである。
だが、40歳を超えた今、こういった自分の連続性に対して疑問を抱くことは一切なくなった。
なぜなら、中学二年生からギターを引き始め、現在までギターを続けてきて、ギターを持てば体がギターの弾き方を覚えていることが、ギターを始めてから現在までの自分が完全な連続体であると、体で覚えているからである。
体で覚えたことは忘れない。
自転車の乗り方を忘れない事の延長にあるような状態が、自分の連続性を直感的に、そして強力に保証してくれるのだ。
従って、考えてもわかりようのないことは、体で覚えた事や直感的な感覚で向かい合ったほうが上手くいくという教訓をギターから学んだのである。
特に楽器をやったことがなくても、自転車に乗れる人間ならば、今から10年間一切自転車に触らず、10年後に自転車に乗れるか聞かれたら、身体能力に問題がなければ乗っていなかったなりに乗れると、いくらか自信を持って答えられるはずだ。
芸術を教養としてやらせる目的はこういったことでもあるはずだ。
ただし、知識や思考からこういったこういった直感的理解を得られないかというとそうでもない。
数学や物理学など、直感的に理解するまでやり込んで、
『こういうふうに考えればいいんだ!』
と、ピキーンと直感的に理解できるというところまで行けば、知識や思考を直感的に扱いつづけ、そこから自分の連続性を感じることも出来るだろう。
だが、これは万人向けではない。
単純に難しいからである。
誰でも出来るわけではなく、たとえ努力したとしてもそういった閃きに至るかどうかは、運によるところが大きく、決して万人向けとはいえない。
そして、その閃きを得るところまでくらいはいけたからこそ言える。
人間の連続性を感じさせる最大の要素は体で覚えたことだ。と
体で覚えたことは、それほど強力なのである。
話を男女の問題に戻そう。
体で覚えたことは強い。
この観点から考えると、男は異常なまでに強いことがわかる。
なぜなら、第二次性徴期になれば男は単純に性に目覚めて、女性に発情してオナニーをするようになるし、ポルノグラフィが好きにもなる。
体で覚えたことの強さを考えると、ポルノグラフィを見てオナニーをすることが、人間の心をすごく強くすることになる。
そして、これは正しいと思う。
では女性はどうであるか、
再び私の体験に戻る。
保育所時代、年長組の昼寝の時間のことだ。
昼寝の時間、なかなか寝付けないでいたら隣で寝ていた女の子からオマンコを触ってほしいと頼まれた。
特に嫌とも感じなかったので手マンをした。
その子は気持ちいいと言っていた。
そのまま続けていたら、保育士の先生がやってきて止められて、大人しく従ってやめた。
だがそれ以上何かを言われもしなかったので、そんなことは普通なのだろう。
男は単純にスケベだ言われるが、なんのことはない。
初潮前どころか小学校に上る前から男にてマンして欲しい子は欲しいのだ。
女性は女性なりに単純にエロいのである。
だが、そのまま第二次性徴期を迎えれば、男が性により深く目覚め、発情する回数と射精する回数が増える。
女がエロいことを1求めたら、10求められられ体がついていけなくなる。
男が満足するまでセックスしていれば、女は望まないセックスを求められ続け体が持たなくなる。
悪く言うと、性的搾取をうける。
そうならないために、女は女なりに単純にエロいという事実を隠す。
これが多くの文明が、女性の性を隠したがる最大の理由なのではないだろうか。
たしかにこれは無難な方法、悪く言うと短絡的なのだが一応の理にかなっているので続いているのだろう。
その状況の中での男とポルノグラフィとオナニーの関係だ。
男だってエロいことは恥ずかしい。
だが女からしてみれば、自分はエロいことを正々堂々言えないのに、男は正々堂々とポルノグラフィを愛し、オナニーをしているようにしか見えないだろう。
女は女なりに単純にエロいと、事実を大っぴらに言えないのに、男は正々堂々とポルノグラフィを愛してオナニーをしていてずるい。
従ってポルノグラフィーは女性全体に対する差別でありセクハラである。
これならば論理が成立する。
だが、自然現象に基づいていると言っていいほど自然発生した性道徳、
女は女なりにエロいという事実を恥ずかしくて言えない、いえばはしたないと批判される社会のシステムが、この論理の理由を言えなくしている。
だから、理由を述べずにただ差別だと言わざるを得ない状況に女性全体を追い詰めている。
先程、体で覚えたことが強いと言った事と合わせると、この組織的構図が女性の性を大きく抑圧し、女性を大きく苦しめているのではないだろうか。
この仮定に立てば、問題である。
だが、ここまで分かってしまえば、男と女が一歩ずつ前に進めば改善できる苦しみの構造ではないだろうか。
男は自分たちがポルノグラフィーとオナニーに関してとてもおおらかだと自覚し、本能だからしょうがないと開き直らなず、ポルノグラフィーを愛でている事実を謙虚に隠し、
さらに一歩進んで女は女なりにエロいという事実を何も言わずに受け入れればいい。
そして女は、男は発情と射精の回数が多いことを、自然現象だから仕方がないと、ある程度おおらかに事実を受け入れて、男のオナニーを黙認できるおおらかさを持てばいい。
ほぼほぼ自然現象でできた社会の構造を変えるのは難しい。
だが、その程度の理由でできた苦しみを生む構造でもある。
それを理解して、多くの人間が少しずつ事実認識と解釈を少しずつ変えていけば、苦しみから開放される可能性はある。
過剰な幻想にとらわれて物事を悪い方向に考えれば、苦しむ必要もないのに苦しむことになる。
そんな苦しみは捨てたところで何も困りはしない。
あらゆることは自然現象の一部なのである。
それをわかって開放されればいい。
この洞察で、人の心が苦しみから開放されることを願う。