『ガンダム Gのレコンギスタ』考察 その3 *ネタバレ注意
*ネタバレ注意
さて、こちら
『機動戦士Zガンダム』考察 ガンダムシリーズの歴史 その1 『Z』のメイントリック *ネタバレ注意 2018/11/26 上げ直し
で書いた通り、
『Zガンダム』は、一年戦争で戦っていた世代が、そうでない世代を戦わせて使い潰した話だ。若い人間を犠牲にした話である。
一方『Gのレコンギスタ』は、戦争に狂ってしまった人間を片っ端から死なせている。
別に予知したわけではないと思うが、富野は『Zガンダム』の時に若い世代が犠牲になる世界を描いていた。
21世紀現在、『Z』と似た社会になったのを、
ひっくり返した『Zガンダム』であり、
対照的な『Gのレコンギスタ』を通じて指摘しているのではないだろうか。
同時に『Gのレコンギスタ』は戦争に狂ってしまった人間を、比較的わかりやすく描いた、 これが解りにくいように作られた、『Zガンダム』とガンダムシリーズを読み解く答え合わせなのではないかと思う。
実際に『Zガンダム』のメイントリックに気づいたのは、『Gのレコンギスタ』を見た後だ。
こう考えると、
ストーリーの破綻を、クンパ大佐の長台詞でものすごくわかりやすく描いている。
(取り繕う気が全くない。)
SF設定が見に行ってしまえば本当にどうしようもない。
クンタラの実態が結局何かわからなかった。
これらが意味するのはなんだろうか。
続く
『ガンダム Gのレコンギスタ』考察 その2 モビルスーツの左腕 *ネタバレ注意
*ネタバレ注意
今回は、ベルリ・ゼナムとカミーユ・ビダン、二人の登場したモビルスーツについて書きたい。
まず、ガンダムMkⅡだ。
肝心なときに左腕がなくなっていて、固定式のシールドを使って人を守ることができずに、カミーユの母親とエマ・シーンを死なせている。
また、Gディフェンサーとは名ばかりで、シールドを外さないと合体できない強化武装を持つ。スーパーガンダムになってロングライフルを構えるMkⅡはわざと怖く描いてあると思う。
ゼータに至っては、戦闘機形態の先端部分についたシールドでシロッコの胴体を真っ二つにし、シールドが折れ戦闘機形態のまま、人の形に戻らずにカミーユが精神崩壊し終わっている。
(ここが変わっているのが新訳『Z』。)
一方、G-セルフは、
シールドを持たないグリモアの、両手を使ったパンチの連打を、左腕のシールドを使って防ぎ、アイーダを守った。
シールドを外さなくても、バックパックで強化が可能。
指摘したいのは「左腕の意味」だ。
筆者なりに見解を書くと左腕は、
「心臓を守る腕」
だと思う。
そして、「左腕のついていないモビルスーツ」が意味するのは、
純粋な兵器、ただの人殺しの道具、といったところだと思う。
実際に、TV版『Zガンダム』の劇中で、モビルスーツはそのように描かれていると思う。
一方でG-セルフは、人の命を守るために造られた機体だと後に明らかにされる。
ベルリが、カミーユを意識して対照的に描いたキャラクターだとすると、
G-セルフは、MkⅡとゼータを意識して対照的に描いたモビルスーツだと思われる。
続く
『ガンダム Gのレコンギスタ』考察 その1 ベルリ・ゼナムとカミーユ・ビダン *ネタバレ注意
*ネタバレ注意
さて、今回から『ガンダム Gのレコンギスタ』について考察したい。
富野作品として久しぶりに作らた『ガンダム』といので、楽しみにして視聴した作品だ。
正直なところ、何を言いたいのかはなんとなくわかるような気がするが、まとまりのない散漫な作品だと思いつつ、2回以上は視聴しただろう。
本作と対を成す作品は『機動戦士Zガンダム』だろう。
まずは主人公、ベルリ・ゼナムとカミーユ・ビダンを比較すると。
カミーユはの両親は技術士官で、父親は愛人を作り、母親はその事を知りつつも仕事に満足し夫婦仲は冷え切っていたが、二人を失ったあとは両親の愛情に飢えていたことを明らかにしている。
また、クワトロとアムロ、二人の大尉と行動を共にして世界を見て回った人間である。
エゥーゴに参加する際には中尉待遇で参加している。
妹を名乗るロザミアと接触したあと死に別れている。
一方、ベルリは義理の母親ではあるが、親バカな母親に恵まれ天真爛漫に育っている。
そして、カーヒルとデレンセン、二人の大尉をうっかり死なせてしまって、世界を見て回った人間である。
アメリア軍には、中尉にしてくれないからと言う理由で志願していない。
実の姉に一目惚れし、後に生きたまま別れている。
これだけではないだろうが、対照的な要素を持っている二人である。
共通する要素もあり、
二人とも才能に恵まれ、カミーユはホモアビスやジュニアモビルスーツの大会で成績を残し、
ベルリはキャピタル・ガードの候補生で、二階級飛び級している。
搭乗する機体も、両親が遺したガンダムタイプのモビルスーツだ。
こうして比較すると、明らかにベルリ・ゼナムはカミーユ・ビダンをひっくり返しにしたキャラクターだと思われる。
次回は、マークⅡとGセルフ二人が乗ったモビルスーツについて考察を進める。
続く
『ガンダム Gのレコンギスタ』考察 その2 モビルスーツの左腕 *ネタバレ注意
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『閃光のハサウェイ』映画化について思う事 *ネタバレ注意
*ネタバレ注意
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の映画化が決まったので、それについて思うことを書きたい。
原作は、小説版『ベルトーチカ・チルドレン』の続編で、映画化される、
『閃光のハサウェイ』の設定が、そのままなのか、それとも、『ガンダムUC』の後の正史扱いになるのかはまだ発表されていない。
それがどうなるかはまだわからないが、
ここではTV版『Z』、と劇場版、新約『Z』との関連性を論じたい。
ここではブライト・ノアが、メイルシュトローム作戦を、シンタとクムに説明する場面の表現の改定を取り上げたい。
TV版 47話「宇宙(そら)の渦」では、メイルシュトローム作戦の概要を淡々と説明した後、「ここは託児所か」、ぼやいている一方、
新約『Z』では、ずいぶんマイルドに説明した後、「勝ったらパーティーだ」と元気づけており、
家庭的な大人を、ちゃんとやってる表現に変わっている。
TV版での表現は、カミーユが狂ったようで、実は本当におかしかったのは、ブライトやシャアだったことを表す表現だったのだが、
新約では、ブライトは家庭的な大人に「成長」している。
TV番『Z』から、原作の『閃光のハサウェイ』につながっているのはわかる。
だが、新約『Z』から原作のままの『閃光のハサウェイ』につながっているとは思いたくない。
少なくとも新約『Z』からつながった、原作のままの『閃光のハサウェイ』を作って欲しいとは思わない。
『閃光のハサウェイ』をこの時代に作り直すとしたら、
新約『Zガンダム』からつながっているであろう、
ガンダムシリーズとともに成長した、ブライト・ノアの息子を描いた、
を期待する。
続く
『機動戦士ガンダムAGE』 世代を超えた人間性の追求 *ネタバレ注意
*ネタバレ注意
今回からは、『機動戦士ガンダムAGE』について、考察を交えつつ描いていこう。
結論から描くと、これはただ『ガンダム』を子供向けにリメイクした作品ではなく、
『ガンダムシリーズ』がたどってきた歴史と、メインクリエイター、富野由悠季がガンダムシリーズで何をしてきたかを、メインテーマとした作品である。
初代『ガンダム』がどんな作品かというと、ここ、
『機動戦士Zガンダム』考察 ガンダムシリーズの歴史 その1 『Z』のメイントリック *ネタバレ注意 2018/11/26 上げ直し
で書いたとおり、戦争をカルト的に、カッコよく描き過ぎた危険な作品でもあった。
そして、その危険性を封印しようとし続けたのが、『Zガンダム』以降の歴史である。
『AGE』は、見れば分かる通り『初代』から『逆襲のシャア』くらいまでを、徹底して子供向けに、リメイクした作品である。
だが、よく見れば、子供向けに、徹底して誠実に作ろうとした作品だというだけではなく、『Zガンダム』以降やり続けた、『初代ガンダム』の危険性の封印を、
世代を超えた人間性の追求、というアプローチで、これまでの作品でなかったくらい一から、徹底的にやっている作品でもある。
それを考えると、『ガンダムAGE』は『初代』の危険性を排除しつつ、21世紀の子供向けに作った、ガンダムシリーズのリメイクであると同時に。
上に書いたような、ガンダムシリーズの歴史をとても良く解っている製作者が作った『ガンダム』でもある。
故郷と母親を失い、AGEシステムとガンダムを作り上げ、謎の敵相手に備えるフリット。
戦いの途中でそこにいる人間、の人間性を知るも、結局はユリンを殺され、復讐者になったのが、フリット・アスノ。
ゼハートとの友情を描きつつも、本人の成長を描いたアセム編。
そして、最初はフリットの受け売りをそのままやりつつも、多くのものを見て自分のやるべきことを見つけ、フリットに復讐者をやめさせるに至ったキオ。
詳しく描きすぎると、ネタバレになるので控えめに描くが、
3世代100年で描いた、人間性の追求、
そして、数百年、数十世代を経た人類の「成長」を書いていると思う。
(これを「進化」と呼ぶべきかどうかは問題提起としたい。)
そしてこの作品は、富野由悠季に宛てたメッセージでもあるだろう。
最終回の、
ユリン「許してあげて、みんなを、自分自身を。」
というメッセージからの下りは、『初代ガンダム』でやった間違いを『Z』以降否定し続けた。富野由悠季送った言葉でもあるように思える。
同時にイゼルカントもまた、『機動戦士ガンダム』を作ってロボットアニメの可能性を追求しようとした、富野喜幸でもあるだろう。
『ガンダムAGE』のテーマは、「世代を超えた戦争と人間性」だと思う。
だが、同時にガンダムシリーズがたどってきた歴史を理解し、初代ガンダムが危険なことも、『Z』以降過ちを正そうとしてきたことも、解っているから、「自分を許して」という製作者から、富野に対するメッセージだとも思う。
とても良くできているし、好きな作品でもある。
だが、問題もある。面白いは面白いにしてもそこそこなのだ。
これは、やっていることが、表も裏も誠実すぎるからで、脚本や演出の甘さは、これに比べれば大した問題ではないだろう。(それでも、最後まで一気に見なければ辛いところもあるだろうが。)
とはいえ、これは子供向けに、誠実に作った作品の宿命とも言えることで、十分許容範囲だと思う。十分良作だと思うし、筆者は大好きだ。
『鉄血のオルフェンズ』を見た後の視聴もおすすめする。
「戦争と人間性」というテーマに関して言えば、『ガンダム』か、子供向けかに関係なく、とてもよくできていると思うので、誰にでも一度は見てほしい作品だ。
続く
『機動戦士Zガンダム』考察 ガンダムシリーズの歴史 その5 『機動戦士ガンダム』の否定 *ネタバレ注意
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さて、『機動戦士ガンダム』は、第二次世界大戦のオマージュである。
ただそれだけではなく、連邦とジオン、両方の正義を描いている。
これに異論を唱える人は、いないだろう。
大したことではない、と思うかも知れない、
だが、第二次世界大戦の正当化と取ろうと思えば、いくらでも出来る。
第二次大戦がモチーフになっている事がわかるならいい。
問題はそれが解らずに、『初代』に熱狂することである。
第二次大戦のオマージュだとも解らず、『初代』に熱狂し、熱く語り合ったり、ニュータイプについて議論したり、モビルスーツやその戦闘に夢中になっているファンは、
無自覚的にファシズムや軍国主義に熱狂しているのとあまり変わらない。
控えめに言ったとしても、ファシズムや軍国主義に、親和性の高い行動だと思う。
少なくとも筆者にはそう見える。
そして、『機動戦士ガンダム』のメインクリエイター、富野由悠季にもそう見えたのではないかと想像する。
ロボットアニメの可能性を追求しようとして、『機動戦士ガンダム』を作って大ヒットさせたところ、気がついてみれば『ガンダム』の熱狂的なファンはそんなふうだったのではないだろうか。
私は80年代生まれなので、『初代』が社会現象になった当時のことを見たわけではないのだが、そんな感じだったのではなかったと想像している。
(当時を知っている方がいれば、コメントしていただきたい。)
『初代』でも、戦争を残酷で、悲惨なものに描こうとはしている。
だが、ミリタリックで、マニアックすぎるというか、
カルト的で、カッコよく書きすぎて、それができていないように見える。
(一つ、二つ、と数えながらリックドムを破壊していくアムロを見れば解ると思う。)
ニュータイプという画期的な概念も、ファンの想像力を喚起させ、作品に対して思いを巡らせることになっている反面、
戦争に対して、心の痛みを感じにくくしてしまった、負の側面を持っていると思う。
『機動戦士ガンダム』は気がついてみれば、戦争、特に第二次世界大戦をカッコよく描きすぎた、危険な作品になったのだと思う。(21世気に入ってから、アルカイダ賛美と言われるようになった『0083』でさえ、初代よりマシだと思う。)
これはアニメ史上、最悪の間違いだったと思う。
一年戦争で戦っていた世代の感覚を狂ったものとして描き、その犠牲者として、象徴的にカミーユを狂わせ。
戦争は残酷で悲惨なものだというテーマを、徹底的に作品に込め、
初代『機動戦士ガンダム』の危険性をメインクリエイター自らが封印しようとした作品だと筆者は推察する。
砕けた言い方をしてしまえば、初代『ガンダム』に危険な熱狂の仕方をしてしまった(させてしまった)ファンに、冷水をぶっかけて正気に戻させようとしたのが『Zガンダム』だ。
現代の人間は、9.11全米同時多発テロ以降の世界に生きており、戦争が残酷で悲惨なものだと、とてもドライに知っている。
また、高度に情報化され、『機動戦士ガンダム』が、第二次世界大戦のパロディ、だと解るのもそれほど難しい話ではない。
だが、それがただの後知恵だった時代、初代『ガンダム』は、今想像するより遥かに危険性が高く、
『Zガンダム』でその熱狂を冷めさせることは、必要なことではなかったのではないだろうか。(これがただの杞憂であればそのほうがいいが。)
そして『Zガンダム』以降のガンダムシリーズは、基本的に初代『ガンダム』を否定し続け、戦争をカッコよく描きすぎないように気をつけていると思う。(『0083』はそれが足りない作品でもある。)
続く
『機動戦士Zガンダム』考察 ガンダムシリーズの歴史 その4 戦争と人間性 *ネタバレ注意
*ネタバレ注意
さて、その3で一年戦争で戦って、戦争に対する感覚が麻痺した世代と、
そうではない甘ちゃんの世代の比較をあえてしなかった続きを書こう。
今まで書いてきたとおり、カミーユは極端な人間のようで、本質的には人の命を守ろうとしてきた人間だ、
カミーユに限らず、一年戦争で戦ってなかった世代のほうが、まともな人間性を持っていたと言っていいだろう。
『Zガンダム』は、一年戦争で戦って戦争に対する感覚が麻痺した世代が、そうでない世代を、甘ちゃんだとも解らずに、殺し合いをさせて、使い潰し犠牲にした側面が強い、
(続編『ダブルゼータ』はさらに酷い。)
だが、その一年戦争で戦っていた世代も、一年戦争で戦争に対する感覚が狂った、戦争の犠牲者だと言っていいだろう。
これらをまとめると、『Zガンダム』が、叙述トリックであえて隠し、メインテーマとしていたことは、
戦争の犠牲になるのはすべての人間
この、極めて使い古された、陳腐なメッセージだとおもわれる。
では、なぜこんな陳腐なメッセージを、
初代『機動戦士ガンダム』の正式な続編で、トリックで隠しながら発したのか。
その原因は勿論、初代『機動戦士ガンダム』にある。
続く